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国指定史跡「旧二本松藩戒石銘碑」拓本を全国会議員へ

3/15(金)菅野京一会頭より二本松商工会議所にて「国指定史跡「旧二本松藩戒石銘碑」拓本を全国会議員へお届けしたい」とご相談いただきました。

爾俸爾禄

民膏民脂

下民易虐

上天難欺

旧二本松藩戒石銘碑について

二本松城址(霞ヶ城址)は、福島県二本松市に所在し、江戸時代・寛永20年(1643年)から明治元年(1868年)までの220有余年にわたる、二本松藩・丹羽(にわ)氏10万700石の居城でした。城の東手には藩庁があって、藩士達の通用門がありました。その藩庁前に露出していた長さ約8.5m、最大幅約5mの自然石(花崗石)の大石に刻まれたのが“戒石銘(かいせきめい)”です。
5代藩主(丹羽家7代)丹羽高寛(たかひろ)公が。藩儒学者の岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするため、命じて刻ませたもので、寛延2年(1749年)3月に完成しました。<この年は、高寛公はすでに致仕(隠居)し、6代藩主高庸(たかつね)公(高寛公の長男)の治世でした。>銘は、露出面の縦1.03m、横1.82mの間に、4句16字を刻み込んだもので、その書体は非常に典雅さが感じられます。

二本松市公式HPより引用

つまり、「お前(武士)の俸給は、民があぶらして働いたたまものより得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて弱い民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」、と解釈されています。
この戒石銘が、二本松藩士の士風を奮い起こしたことは言うまでもありません。明治戊辰の戦役において、藩の子弟が二本松少年隊として西軍に対して奮戦力闘し士道に殉じ、また重臣の多くが城を枕に自刃して武士の亀鑑(模範)を示したこともまた、この戒石銘の余香であったと思われます。
昭和10年(1935年)12月24日、教育資料として、また行政の規範として価値の高いものであるため、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定されました。

二本松市公式HPより引用

過去の取り組み

この活動は、1989年全国会議員、全国の知事、市長あてに戒石銘碑の拓本を贈呈し、当時の大河内市長が「銘文を後世に継承するとともに、公人たる者の規範とすることを、堅く誓い、もってその精神を全国に広めることを宣言する。」とする戒石銘宣言を出されました。

2013年には二本松商工会議所より全閣僚へ戒石銘碑の拓本を寄贈し、「税金を大切に使いつつ、復興を加速してほしい」というメッセージを届けられました。

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