ある日突然亀岡よしたみ

早稲田がインテリの大学だなんてウソだぁ。―早大野球部時代―

 早稲田の合格発表の三日後に、大学から「野球部に来い」という電話が来た。

 偉民は迷った。受験勉強中に、「もう野球生活からは解放されたい。のびのび遊んでみたい」という気持ちが頭をもたげはじめていた。これから先、野球をやるかどうか、自分でもわからなくなっていた矢先の誘いだった。

 突然、来いといわれても、何の用意もしていない。とりあえず上京してアパートをさがした。

 新宿区柳町の、古いアパートの一室が偉民の東京暮らしの小さな城となった。六畳一間でカギはかからず、日も当たらない。トイレと台所は共同で、住民はみな年寄りばかり―あとで知ったが平均年齢80才の、超高齢アパートだった。

 柳町は光化学スモッグのひざもとで全国的に有名で、社会の教科書にのったほどである。-たいへんなところに、偉民はふとんと自転車と、野球のユニホームだけを持って引越した。どんな劣悪な条件も、若さがはねのけた。

 偉民がとどまったのは、本人の意思とは関係なく、江川のキャッチャーとして知名度があがっていたことだった。ベースボールマガジンが早速狙ってきた。表紙に、早稲田の制服制帽で登場してほしいという。偉民のほかに※執筆当時(現・早大監督の佐藤、現・巨人コーチの山倉、現・ニッサン自動車の白鳥)の三人が呼ばれた。

 四人そろって大隈講堂をバックに写真を―というが、偉民は制服も制帽も持っていない。知人をたよってようやく借りて撮影にまにあわせたが、あとでベースボールマガジンの表紙を見たら、つんつるてんの制服を着て畏まっている自分の姿に、偉民はけっこう傷ついた。

 まもなく、野球部の練習が始まった。

 野球を続けようか、やめようか…偉民の心の迷いを無視するかのように、野球が偉民をとらえて放さなかった。再び、偉民の野球人生がスタートする。

 高校の三年間を野球一筋に費やしたのち、また大学時代を野球で生きようとする偉民にも、普通の若者らしい青春の時があった。-入学してから夏の合宿が始まるまでの五か月である。

 偉民は、高校時代に触れることもできなかった“自由”を一気にとりもどすかのように、そしてこれから先、大学の野球部で失うであろう“自由”をいま先取りするかのように、夢中で遊んだ。恋もした。別れも経験した。一日二十四時間を貪るように使い、他の若者の何年か分にあたる青春時代を、五か月に凝縮して駆け抜けた。

 -青春をたしかめるための青春は、しかし孤独だった。ときどき、夜更けに、新宿の古いバーを訪ねて、盲目のピアニストが弾く曲に耳を傾けた。いつも一人でやって来てぽつんと座っている青年に気づいていたのか、ピアニストは、偉民のいろいろなリクエストに応えて、一曲、一曲、丹念に演奏してくれた。このバーですごすひとときが、偉民の唯一の安らぎだった。

 夏が来て“地獄の”と形容詞が付く軽井沢合宿が始まった。この合宿では、一か月間、完全に外界から遮断される。午前中は新人の練習、午後は全体練習で、その厳しさは高校時代とは比べものにならない。

 泡を吹いて倒れる者が続出し、何人かは脱走した。メンバーの中にキャッチャーは少なかったので、偉民は人一倍頑張った。岡山東から来たキャッチャーの山本とふたりで、全体練習が終わったあとも夜遅くまで練習した。

 一か月間、封鎖された世界で野球だけに明けくれていると、誰でも精神に変調をきたしてくる。みんなはこれを“軽井沢の変身”と呼んで恐れた。

 合宿の日数が経つにつれて、ふだん温厚な人がこわくなる。逆にふだんこわい人が妙にやさしくなる。いつもものわかりが良く、後輩をなぐったことがない人が、軽井沢では急になぐり出す。バットを持って十メートルぐらい助走をつけて、思いきり尻をなぐる。体中から火を噴くほど痛いが、逃げると倍やられる。それでできたアザは、ひと月は黒々と残った。これは“地獄のケツバット”と呼ばれ、下級生たちにとっては、“地獄の中の地獄”だった。

 顔面を張り倒されることもしょっ中で、一度だけ偉民の母と兄が訪ねてきてくれた時、偉民の顔ははれあがっていた。母も兄も、すぐそれと気づいたようだったが、何も聞かず、兄が「大変だな。」とひとこと言っただけだった。ありがたかった。

 朝四時、十キロのランニングが始まる。八時から普通の練習があり、午後は個人ノックでしぼられる。そのあと、ゴルフ場の外周を走って回る。偉民は走りながら意識を失っていた。先輩たちが見ていてバケツの水を頭からかけると、はっと我にかえった。

 「ここで倒れたららくだろうな…。」合宿中偉民は何度も思った。

 石井総監督は、歯を食いしばって合宿について来る偉民に、さらに過酷な言葉を投げつけた。「お前の先輩八木沢は、走っているか投げているところきり見たことがないが、それに比べてお前は何とだらしがないんだ」作新学院から早大野球部に進み、プロ野球で活躍した八木沢荘六(元・ロッテ監督)に続いて、十年ぶりに作新―早稲田のコースをたどった偉民だったが、ここまで来て先輩が引きあいに出されるとは思わなかった。-早稲田はインテリの大学だと思っていたがインテリなんてうそだ、と偉民は思った。

 地獄の合宿が終わった後、偉民、山倉、佐藤(現・早大監督)の三人の一年生だけが、レギュラーのメンバーの入れられた。

 レギュラーになると、グランドのすぐそばにある戸塚の合宿所に入らなければならない。偉民は、そこでどんなくらしが待っているか手にとるように読めたので、うんざりしたが仕方がない。

 合宿所ぐらしが始まった。

 一年生三人は建物全部の掃除をしなければならない。二十人分の部屋と食堂・講堂・応接間ときた。六時起床で体操をしたあと、掃除にかかるのが日課だった。佐藤はクソまじめで丹念に掃除をしたが、偉民と山倉は恐れを知らぬちゃらんぽらんぶりで、はじめの一か月は「掃除がなっておらん」と、三人そろってなぐられてばかりいた。これにこりた佐藤はその後、偉民と山倉が掃除したあとをブツブツ文句を言いながらもう一度、掃除して回るパターンが続いた。

 あとになって、佐藤が結核にかかって長く入院することになり、残ったちゃらんぽらん組が二人で掃除をする羽目になった。

 電話当番という、ありがたくない仕事もあった。練習が終わった夕方から翌日の練習が始まる一時まで、電話のある食堂にすわって、日に数えるほどきりかかってこない電話の番をするのである。

 先輩たちがテレビを見てくつろいでいる食堂のすみに制服姿できちんと座っていなければならない。ヒマだからといって本など読むのはとんでもない。ただ、じっと電話のそばに居なければならない。この当番が三日に一回まわって来たが、これも佐藤の入院で二日に一回まわってくることになった。「インテリなんてうそだぁ」偉民は電話のそばに座って、心の中でつぶやいた。

「野球がすきだ」という気持ちは、厳しいしごきや怪我のつらさを吹き飛ばした

失意の偉民をなぐさめて、親友は逝った。―早大野球部時代―

涙ぐましい合宿所ぐらしも板についてきたその年の秋、一年生の偉民は初の早慶戦を迎えた。五万五千人の観客が神宮球場を埋めた。

偉民は、はじめて打席に立った。足がふるえた。満場の観客の熱気にあふれる甲子園ではアガったことのない偉民だが、なぜか神宮は違った。しかし、ここで偉民は初打席で右中間を抜く三塁打を放ち、初打席を挙げる。

 ようやく偉民の底力が始動してきた。この神宮球場での試合を突破口に、偉民はのびのびと本来のパワーを発揮し、次第に早大野球部の中堅として成長していった。

 しかし、突然偉民を襲った不運があった。焼津のキャンプで、キャッチャーの命である右手を骨折してしまったのだ。

早撃ちマックと仇名される、ノック専門のOBの千本 ノックを受ける練習中―球を取って投げた瞬間に、次のボールが飛んできて偉民の右手を直撃した。骨がとび出す複雑骨折だった。

 偉民はこのケガで三ヵ月、練習を休まなければならなかった。-厳しい、という言葉では表現できない練習に耐え、先輩のしごきに耐えて、ライバルと競い合ってきた長い長い時間が、ここで消えてしまう…偉民は、体が震えるほどくやしかったが、どうしようもない。ただ、ケガを治すことを考える他はなかった。

 偉民が休んでいる間に、山倉がレギュラーに定着した。黙々と人の三倍の努力をしてレギュラーを取った偉民と比べると、山倉は、持って生まれたセンスと俊足と、ふしぎな華やかさで勝負する男だった。山倉を取った石山総監督は、「ケガも実力のうちだ。」と偉民に言い放った。

 失意の偉民に、アメリカ留学をすすめてくれる人がいた。「これはね、君と山倉の宿命のような争いなんだ。同じ学年に、いいキャッチャーが集まってしまったからね。留学して自分の世界をもっと広げてみてはどうかな。野球だけが君の人生ではないような気がする。」―しかし、偉民は、そんなことを考えてみる気もなかった。どんなにつらくても野球から逃げ出すのはいやだ、と思った。

 そんなある日、一本の電話がかかってきた。小学校、中学校をともに過ごしてきた親友・早乙女からだった。「久しぶりにいっしょに飲まないか。」―高校に入ってから別れたままの早乙女に会うのは。本当にしばらくぶりだ。「俺、ボーナスもらったからおごるよ。」―今まで音信がとだえていた早乙女が、急にこんなことを言ってきたのは、自分のケガのことを聞いたからだ、と偉民は分かった。早乙女は、遠く離れていても、偉民の心が分かるやつだった。

 早乙女は、サッカーを選んで、名門・宇都宮工業に進んだが、ひざが故障でサッカーを断念したと聞いていた。中学のスーパースターだった彼にとって、どんなにつらいことだっただろう。夢をかなえて甲子園に行く親友をどんな思いでみていただろう、と偉民は心が痛んだ。早乙女はそのあと東京に就職して夜間大学に行ったときいた。

 ふたりは新宿をハシゴして飲み歩いた。早乙女は、偉民を励まし、自分もグチをこぼして酔った。一軒、また一軒と回っても話は尽きずに飲み明かした。相当金も要ったのに、早乙女は「俺が払う!」ときかなかった。

 偉民が早乙女に会ったのは、それが最後だった。その翌年、彼は死んで朝を迎えていたという。-誰も、理由はわからなかった。

 偉民はいまも、親友早乙女の墓参りを欠かさない。命日には、彼が愛した日本酒を墓に注いでやる。「おお、」と相好をくずして盃を出す早乙女の顔がよみがえる。命日に行けない時は、地元の花屋にたのんで、墓に花を手向けてもらう。-早乙女と歩んだ少年時代は、偉民の心の中の宝の一つである。

 早慶戦の春のシーズンが六月末で終わると、軽井沢の合宿が始まるもでの七月いっぱいは、さすがの野球部も夏休みにある。その間、部員たちは、高校生に野球を教えるというバイトが待っていた。高校の野球のコーチが頼んでくる。早稲田は人気があって、選手たちは一日一万という大金をもらえた。偉民も青森。秋田、群馬と高校生たちに教えてまわった。―大学に入ってからの偉民は、監督とウマが合わず、野球の中にめんどうな人間の思惑が入りこんでいることに傷ついていたので、無心の高校生たちに野球を教えることで、心を現れるような気がした。いまも、純粋に野球に打ち込む高校生たちに教えるときが、偉民の一番楽しいひと時である。

 野球が楽しくて仕方がなかった高校時代にくらべて、大学での野球へ、屈託のない偉民の心に、影を落とした。総監督は偉民に目をかけてくれたが、監督は、天才肌の選手を好み、努力型の偉民をうとんじた。偉民が何をした訳でもない。どこが悪いという訳でもない。監督にとって、天性のセンスで軽々と華麗な野球をする者が好みであったらしい。

 偉民は、監督の好む選手に比べれば、たしかに野球センスは悪い。理にかなったバッティングをしていない。それに、江川のキャッチャーだったためのマイナスがあった。豪速球を受けて育ったので、普通の遅い球を受けるのに苦労していた。-しかし、そんな偉民を監督は外すわけにはいかなかった。偉民を試合に出すと、必ずホームランを放つ男だったからだ。

 一心に野球をしているだけでは生きられない。人間の好き嫌いという単純な感情や、人間同士の心をつなぐ“ウメ”という不思議な綾に偉民は苦しめられた。虐げられた四年間だったともいえる。

 「野球は監督です。監督に嫌われたら終わりですよ。」と、偉民は当時をふり返って苦笑するが「おかげで、いろいろなことを考えさせられた四年間でした。それまで挫折を知らなかった自分が、はじめて人生の苦しみに触れて悩んだ、貴重な四年間だったと思います。」

早稲田大学野球部時代、軽井沢キャンプでしごかれるよしたみ
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