鬼を叱りとばすんだから“エンマ”コーチだ。―ちょっとプロフィール―
財団法人アジア刑政財団・理事長 敷田 稔氏
今から十七、八年前になりますか、私が検事だった時代に、仕事仲間同士の親睦を図る野球チームがありました。賢治、判事、弁護士の各チームが、青年と壮年にそれぞれ二チーム、合計六チームがリーグ戦をやるわけです。野球好きの私も、もちろんその一員で、検事の壮年チームでがんばっていました。ところが、検事チームが弱い。ふだん“鬼”と呼ばれる者が、野球ではボロボロに負けている…これ、じゃくやしいじゃないかという訳で、検事チームの総監督に迎えたのが、亀岡偉民さんです。
亀岡さんは当時、熊谷組に努めていました。活力のあふれる、さわやかな青年で、熱心に私たちを指導してくれました。ところがそのおそろしいこと。鬼検事たちが叱りとばされてオロオロしている。鬼検事たちの鬼コーチとみんなが読んでいましたが、そのうち「いや、鬼を叱るのはエンマきりいない。あれはエンマか…。」とささやかれていました。
亀岡さんは、精神の高揚と野球の技術の裏付けが実によくかみ合っているうえ、絶妙なリーダーシップを発揮して、長年の者をしっかりまとめていました。
“エンマコーチ”のおかげで、検事チームは着実に力をつけて強くなりました。いま、仙台で活躍している平田検事正、青森の遠藤検事正も、私と一緒に亀岡さんに叱りとばされた組
です。
当時、亀岡さんは一流の野球人でしたが、体を使って汗を流せばいいというスポーツ選手ではありませんでした。データを完全につかんで采配を振る総合力を身につけた人でした。理にかない、情けに訴える天性の素質と、天衣無縫の指導力を感じさせました。私はその時、「野球」は亀岡さんにとって人生の目的ではなく、一つのプロセスに過ぎない。この人は、もっと大きくなる人だろうと思いました。
作新時代、亀岡さんは、江川のキャッチャーとして活躍したわけですが、江川をあれだけ投げさせて成功させたのは、亀岡さんの力量に他なりません。「キャッチャーは、いい監督になれる」とよく言われるように、常にチームの全体を見て、瞬時に的確な判断を下さなければならない。これには、強い精神力と明晰な頭脳とリーダーシップが必要です。
亀岡さんが打ち込んできたのは野球だけではない。実によく勉強しています。沢山の優れた文学書を読み、音楽の造詣も深く、ピアノも弾く。絵も描く。人間としての豊かさを自ら培っています。
亀岡さんは、早稲田の野球部でも大勢の優れた選手の中から抜擢されてレギュラーをつとめ、のちに早大の助監督として、そして熊谷組で、たくさんの人を動かしてきました。彼は、野球の経験と、その中で培ってきた力量を、世の中のために生かせる人です。
もし、タイムスリップして、亀岡さんが戦国の武将であっても―彼は宮本武蔵のようにひとりの力を示すのではなく、すばらしい組織力で一国をまとめたでしょう。彼には、既成概念にとらわれない精神構造の柔らかさと、価値の相対性・多様性をよく理解できる知性が備わっています。彼の素質に加えて、これまで多様な価値に接触してきた経験が、ものごとの本質をすぐ見抜いて行動することができるすぐれた能力をみがいてきたと思います。
いまの日本のリーダーにかけているものは、高いところから全体を見る視点です。アジアには何が必要か、何をするべきかを見通す総合的な力量です。
いまは亡き亀岡高夫先生は、アジアのために命を投げ出そうという情熱と、アジアにおける日本という視点をつねに持ち続けた人でした。偉民さんは、高夫先生の遺志を継いで、その力量を、アジアのため、日本のために生かしてほしいと思います。
「ゲンコツになれ。」と、父はこぶしをつき出した。―父・小倉啓道の思い出―
偉民の父・小倉啓道は、偉民が生まれるとすぐ、久保田鉄工から独立して農機具店を開いた。
啓道は、毎日車で農家まわりをしていた。幼稚園のころになると、偉民はよく父の車に乗っていっしょに出かけた。
「ちょっと待ってろ」幼い子を車に残して、父はひとりで商談のある農家に入っていく。-待てども待てども帰ってこない。さすがの腕白坊主が泣きべそ顔になるころ、酔っ払って顔を真っ赤にした父がもどって来る。こんなことはしょっちゅうだった。
ぐでんぐでんになって夜中に帰って来て、幼稚園の廊下に大の字になって寝ていることもまれではなかった。-そんな父を、なだめたりすかしたりして、ふとんまで引っぱっていって寝かせるのは、いつも末っ子の偉民だった。わけがわからないほど酔っぱらっている父も、ふしぎに偉民の言うことだけは聞いた。
-それ以来、偉民は、酔っぱらいはなんとも苦手である。
偉民が小学五年生のこれである。出はらって誰もいない家で、偉民がひとり、留守番をしていると、つかつかと家の中に、見知らぬ男が入ってきた。
びっくりしている偉民を尻目に、男は家の中を見渡すと、いきなりテレビをかかえて持っていこうとする。「何をするんだー」偉民がつかみかかったが、男もひるまない。
父の借金のカタに、金目のものを取りに来た借金取りの男だったのである。男の言い分によると、十万近い金がコゲついているという。父は、店の資金ぐりに困って金を借りたらしい。偉民は、男を家においたまま、知り合いの家をかけずりまわってお金をかき集めた。
家にもどった偉民は、借金取りに向かってお金をたたきつけ、男がそれを拾うまもなくバットをブンブンうならせて男を追いかけまわした。くやしくてくやしくて、体中の血が逆流した。
父は、真面目一徹な男だったが、商売はあまり上手とはいえなかった。偉民が中学生のころに、要注意の手形が災いして、いっぺんに何千万という借金を作ってしまったことがある。
小倉家では、上の息子、娘たちが大学、高校と一番お金のかかる時期に加えて、母が経営する幼稚園を拡大している時でもあり、この上にのしかかる巨額な借金は、一家の前途を押しつぶすものであった。
家族の話し合いの末、兄も、姉も、学校はやめる。偉民だけはまだ中学生だから、学校に行け、という悲惨なことになった。-しかし、最後には、母、みき枝かが苦労い苦労を重ねてやりくりして、危機はなんとか乗り越えたのである。偉民も、インスタントラーメンの大箱一つの一か月の夜食として与えられ、毎日ひとりでこれを食べて、荒波を乗り越えようとする家族のために辛抱した。
啓道は、口数が少なく、不愛想だったが、情けの熱い男だった。
啓道を頼って、夜逃げしてくる人を、黙ってせわをしてやる。適当な空き家をさがして、ふとんを運びこんでやる。ときには、子供のふとんまで運びだした。子供たちが文句をいうと「おまえら、たたみの上に寝られるだけしあわせだ。」と言い、ブツブツ言っている偉民まで、ふとん運びを手伝わせた。
夜逃げしてきても、一週間ぐらいは暮らせるようにと、啓道は、寝具のほかに、最低限の食料や身の回りのものを用意してやっていたが、その人たちは、知らないうちにまたどこかへ逃げていってしまう。-それでも啓道は淡々としていた。
偉民が、作新学院で野球をやると言ったとき、「高校は勉強しに行くところだ。野球をやりに行くところじゃない。」と、強固に反対した父だったが、野球に打ち込む息子の様子が伝わってくるにつれて、頑なな心も溶けていった。どうせ続かないだろうとタカをくくっていた家族の予測をみごとにひっくりかえして、偉民が頑張っている。
父は、時折、作新の合宿所に、夜の十一時ごろ突然現れ、偉民の顔を見ると黙って帰って行った。
たった一度、父がしゃべったことがある。偉民に向かってゲンコツを突き出し、「キャッチャーは、扇の要だ。ゲンコツになれ。」とボソリと言って立ち去った。
そんな父が、交通事故で脊髄を痛め、寝たきりになってしまった。
意識ははっきりしているが、体は全くいうことをきかない。回復の見込みはほとんどなかった。病院で、寝たきりの生活が続いた。
母と兄が、それぞれの仕事を切り回しながら、つききりで看病した。ふたりが疲れ果ててしまうと、時間をやりくりして偉民も父の世話にかけつけた。
しかし、父が奇跡のように一度だけ復活しことがあった。早稲田のグランド・安部球場にひょっこり現れたのである。大学野球で活躍する息子の姿をどんなにか見たかったのだろう。偉民はわが目を疑った。-見れば父は、栃木から、ウィンカーもないボロ車でやってきたのだった。父は黙って偉民たちの練習を見ると、そのままひょうひょうと立ち去った。
自分の足でしっかり歩く父の姿を見るのは実に久しぶりだったが、偉民にとって、それが元気な父の最後の姿ともなった。
栃木にもどった父は、小康状態も束の間、再び寝込み、症状は悪化するばかりになった。偉民が大学を卒業して会社勤めするようになっても、寝たきりの状態が続き、偉民は二日に一度、父の病室に泊まり、翌朝は栃木から会社に通う生活をくり返してきた。
いつものように、父の看病に帰ったある日、偉民はちょっと気ばらしのつもりでラリーをやっていた兄の車を運転して、山道を走った。兄がナビゲーターをつとめ、弟はパリダカのレーサー気分でやっていたが、車ごと崖から転落してしまった。車は三回転して下の川原に転落した。めちゃめちゃに壊れた車から、運よく脱出した兄は、瞬間、偉民は死んだと思った。-しかし、頑丈を絵に書いたような弟は、「車で空を飛んだのは初めてだ。」と言いながら、血だらけの頭ではい出してきた。全く運の強い兄弟である。
その晩は偉民が看病当番である。偉民は止血して、毛糸の帽子をすっぽりかぶった。こんなことが、母にバレたらうるさい。
母の眼はうまくごまかせたが、―夏でなくてよかった―そのあとが甘くなかった。車の内部のガードで頭をしたたか打っていたのでその痛みは半端ではない。偉民は一晩中うなっていた。看病に来た息子のうめき声に、看病されるはずの父がまんじりともせず心配した。
父は、もう一度奇跡が起きることなく、昭和五十七年、六十七歳で亡くなった。偉民が二十七歳の時だった。
高校、大学と合宿所ぐらしで、家族と一緒に過ごすことがほとんどなかった偉民だった。とりわけ父とは離れていたが、お互いに、何を言われなくても、めったに会わなくても、父子の間に通い合うものがあった。
「キャッチャーは扇の要だ。ゲンコツになれ。」と、深夜の合宿所に来てゲンコツをつき出した父の姿を、偉民はいまも鮮やかに思い出す。
ふるさとの町に帰ったとき、誰もいない学校のグランドに立つと、新聞を手に息子のランニングを見守っていた父の姿が、すぐそこにあるような気がしてならない。
「男はこう生きろ」という希いと夢を偉民に託して、いまも父は、ゲンコツを突き出して、偉民の行く手を見守っているかもしれない。
左、よしたみの試合を観戦する父(右は叔母)