政治家じゃないが、こうしてはいられない。―亀岡高夫と行動を起す―
昭和五十五年ごろから、全国の中学・高校で校内暴力の嵐がわき起った。
生徒が教師に暴力をふるう、校舎や教室を壊すなどの事件が相次ぎ、子が親を殺害するまで止まらない家庭内暴力も、次々と起きた。まだ幼い少年たちが、自分たちの心の行き場を失って荒れ狂っていた。昭和五十七年は、その嵐がますます激しく吹き荒れている頃である。少年の非行も増えるばかりで、大人たちは手をこまねいてながめていた。
偉民は、政治家も教育を真剣に考えるべきだと思った。親や、教師だけの責任ではない。経済効率だけを追い求め、人間らしさを忘れて、前へ前へと進むこときり考えない時代が、子供たちをこれほどまでにスポイルしたのだと思った。亀岡高夫を話すと、高夫はたちどころに偉民の意見に賛同した。
まもなく木曜クラブに、「教育研究懇話会」が誕生した。会長に亀岡高夫。事務局長には、偉民が頼んで、船田元氏になってもらった。メンバーには、渡辺恒三氏、愛野興一氏などを中心に、国会議員三十人ほどが集まり、二週に一度、研究会を行った。
この時期に文部省には「臨時教育審議会」が設けられ、いじめ・校内暴力・家庭内暴力の問題を国として考える体制が組まれたが、教育研究懇話会は、研究内容をまとめては教育審議会に提言をくり返し、文部省のとりくみを形だけで終わらせないための活動が続けてきた。
同じときに、偉民は、「まちづくりを考える都市計画懇談会」を、やはり高夫に図って設立している。高夫が座長を、偉民が事務局長をつとめ、住宅都市整備公団副総裁・倉茂周明、東京都市局長・大橋本一市など十人のメンバーでまちづくりの研究会が行われていた。
偉民は、とくに政治的な活動をしようというつもりはなかった。こうしていられない、この世の中がこれでいいのかという憂いと正義感が彼を動かした。
いまふり返って偉民が思うのは、高夫がよく偉民のような若い者の意見を真摯にとりあげ、自ら問題にとりくんだということである。それだけ高夫は、政治家として既成の観念や権威でコチコチに固まらない、やわらかで鋭い時代感覚を持っていたのだと思う。
麻薬の問題もあった。
当時の首相・中曽根氏が世界サミット会議に出席して帰国した時、同行した外務省・建設省などの役人が、偉民のところにきた。一民間人である青年偉民が、たちまちのうちに議員の賛同をとりつけて問題にとりくむ組織づくりをするのを見てきているからである。
話によると、世界は、麻薬・売春・暴力の三悪追放の運動を真剣に展開しているという。しかし、日本の三悪追放運動は、一時叫ばれたがたち消えになってしまっている。三悪が青少年をも汚染している時代に、日本にも三悪追放運動とおの受皿が必要だということである。
偉民はさっそく高夫に相談した。高夫も納得して、すぐやろう、ということになった。偉民は次に厚生省に行った。森薬務局長(現・宮内庁次長)、市川薬務課長も、ぜひやろうとひざを乗り出した。しかし、「厚生省に予算がない。何とかしてくれ。」と偉民は役人に逆に泣きつかれた。
こうなったら仕方がない。偉民は金持ちの人に頼むことにした。当時、「自転車振興」を作った永久参与・倉茂貞助氏に会ってわけを話すと、ポンと年間三億の予算をつけてくれたのである。―そして昭和六十年、東京・虎の門に「薬物乱用防止センター」ができ上った。
福島県もいま、毎年一回、このセンターの趣旨をうけて、薬物乱用の啓蒙イベントを行っている。
政治家でもない、ごくふつうの会社員である一青年は、じっとしていられなかった。ひとのこと、まちのこと、日本のことを思うと何とかしないではいられない。会社の仕事も全力でやった。一日四時間きり眠らなかったが、偉民はそれでも一日は短すぎた。やるべきことが山のように積もっている、と感じていた。そんな偉民の心を、一番よくわかってくれたのが、父・亀岡高夫であった。
もし、亀岡高夫が健在でいまも国政に参画し、偉民も国政の場で活躍できていたら、ふたりのパワーと姿勢は、国会の古い体質を変え、日本の未来を招く新しい原動力を育むことになっただろう。
高夫は、福島のまちをじっとながめていた―亀岡高夫と偉民の福島航空プラン―
昭和五十九年の総選挙で、高夫は福島に戻った。偉民と高夫はいっしょに、はじめて福島に入った。高夫は、軽い脳溢血を起こした後でまだよくしゃべれず、体調も悪かったので、偉民が付き添った。
福島は折からの雪で、二人が泊まった辰巳屋のレストランの窓の外には、雪景色のまちと美しい吾妻山が広がっていた。偉民は「ここが、高夫を育てたまちなんだな」と思うと、はじめて来た福島が不思議になつかしかった。
ふと気がつくと、高夫は朝食の手を止めて、じっと遠くを見つめていた。-その姿を偉民はいまも鮮やかに思い出す。
偉民は、学生時代に栃木県で、船田中氏、船田譲氏の選挙の手伝いはよくやっていたが、父・高夫の選挙を手伝うのははじめてだった。
高夫はこの時、まだ言語障害が回復せず、福島での総決起大会では「私が、亀岡高夫です」と言うのが精一杯だった。これでも、続けて国政の場に参画することができたと思うと、偉民は、高夫を信じて支えてくれたたくさんの人達に、改めて感謝せずにはいられない。
昭和六十一年に入って、高夫は偉民たち家族といっしょに生活するようになり、健康も回復して、再び精力的に動き出した。
ちょうどこの頃、福島空港の建設プランが進行していたが、高夫と偉民は、福島空港が第二種の空港でいいのかという思いにかられた。羽田と成田の空港の状況を調べてみると、すでにパンク状態だった。これからは、第三の国際空港が必要になる。
高夫と偉民の独自の調査が始まった。まず、運輸省で、国際空港としての適正なチェックをする。福島空港は、風が北からだけ吹いて離陸しやすい。航空管制上問題なし、と出た。山を五十メートル削って低くして、三千メートルの滑走路ができる。これで国際空港としては十分だ。しかし、外国からどんどん大型機がやってくるのだから、騒音が問題になる。高夫の指示で、偉民は空港の村となる玉川村に調査に入った。東大土木工学科の大学生院のチームが偉民といっしょに行動した。偉民たちは、玉川村の民家を一軒一軒まわって騒音の影響を調べた。これも大丈夫だった。次は、アクセスである。JRも巻きこんで検討した結果、須賀川から空港まで直行できる線路も十分ひけるという。これで東京―福島空港はわずか一時間で結ばれる。
第三の国際空港としてやれる条件はすべてそろった。高夫は、福島空港は、第一種国際空港としてやるべきだとの見解を固めた。
企画書と提案図を作成し、偉民がこれを県に持って行った。当時、県側は「提言として承りましょう。」という段階にとどまったが、いよいよ福島国際空港が具体的に検討され始めている。
いつも十年先、二十年先を考える高夫は、福島県に、国際空港にするべきだという進言をするものの、誰よりも早かった。高夫は「日本人は国際人たれ」という信念を持っていた。国際人とは、英語が自由自在にしゃべれる人のことを指すのではない。国際感覚の豊かな人間・世界の平和を考えられる人間というのだといつも語っていた。
福島空港が、世界平和を願って開かれる県民の窓・第三の国際空港となる日を、高夫は天から待ち望んでいることだろう。
父子で願い続ける平和―アジア刑政財団―
“いじめ”が深刻な社会問題となって久しくなる。学校、行政、マスコミなどがいじめの問題に取り組んでいるが、いじめは減るどころか、さらに陰湿に執拗に水面下にもぐりこんでいく。学校も、親も「いじめがあったとは思わなかった」と戸惑う中で、何人もの子供たちが自ら命を絶っている。自殺だけではない。最近だけでも、三人の少年が、リンチで死んだ。誤って殺されたのではない。複数の少年たちが、何時間もかけて意図的になぐり降ろしているのだ。
なぜこんなことになってしまったのか。加害者の少年たちは、どういう生育歴を持ち、どういう家庭環境の中で育ってきたのか。-早大野球部時代から今日まで、野球を通してたくさんの子供たちと苦楽を共にしてきた偉民にとって、後を絶たない子供たちの悲惨な事件はたまらない。
数年前の事件になるが、ひとりの女子高校生を数人の少年が一ヵ月余りも監禁して暴行を加えたうえ、なぶり殺しにしてコンクリート詰めにして棄てたという、痛ましい事件は、子を持つ親にとって誰の記憶にも残っているだろう。この事件がさらに悲惨を極めることは、社会的にはきちんとした両親が、共に生活していながら、息子たちがやっていた監禁、暴行、殺人に気づかなかった、気づこうとしなかったことに、殺人と同じくらいの恐ろしさを、偉民は感じずにいられない。
これらの事件の数々は、子供たちだけが起こしているのではない。この子供たちを生み育てた親が起こしている、と偉民は思う。
いまの親たちは、個性をわがままとはきちがえ、放任を個人主義と誤解し、一斉教育を「枠にはめる」と非難する。子供たちに学力をつけさせることだけが幸福への道と信じ、カギのかかる小ぎれいな子供部屋を与えて、勉強さえすればよしとする。叱らず、辛抱させず、保護することを愛情だと信じている。「友達のようなお父さん、お母さん」であることを誇りにして、子供達に迎合する。立派な“家”はあっても、そこに“家庭”はない。ぬけがらになった家に、健やかな子供が育つはずはないと偉民は考える。
日本にも良き時代があった。どんな親も―たとえ文字が読めない親でも―みんな信条をもって子供を育てていた。「うそをつくな」「ひとに迷惑をかけるな」「約束は守れ」「弱いものはいじめるな」「無益な殺生をするな」「卑怯なけんかをするな」「あいさつをせよ」―などと、どの家でも人間としての基本を子供たちに厳しく教えた。
その時代にまた、職業もひとつひとつが評価されていた。道路を造る人、整備する人がいなければ車は走れない。その車を造る人、運転する人、ガソリンを売る人―それぞれがなくてはならない職業である。-いまは、といえば、一流大学を出て一流企業のサラリーマンになることだけが、親と子の目標になっている。
戦後のめざましい経済成長の中で、日本人はたしかに豊かな生活を手に入れた。しかし、それと引換えに、日本人としての信念と心の豊かさを失ってしまったと、偉民は感じている。
子供たちのいじめや非行の問題に対して、「思いやり」の教育こそ大切とさかんに言われるが、偉民は「思いやり」の教育は決して簡単なものではないと思っている。
子供たちに思いやりを教える前に、親をはじめ子供たちをとりまくすべての大人たちが、思いやりとは何か、なぜ子供たちがおもいやりを身につけられないのかを、自らに問わなければならない。
この六月、大阪の小学校で、誤ってドブに落ちた子を、担任の教師自ら「ドジ」「タコ」と呼び、彼をからかう歌まで作ってクラスの子供たちに歌わせていたという事実が明るみに出た。いじめに正面から取り組まなければならない現場の教師がこうであれば、子供たちは思いやりなど、どこでどう学べばいいのだろう。
いじめの教育や心理、社会学などの立場からどんなに研究しても、何にもならない。いじめる側・いじめられる側に立って、偉民は、自分が加害者・被害者のつもりになって、なぜこうなるのか、徹底的に追いかけていくつもりである。
子供たちが学校や家庭で暴力をふるって荒れ狂った昭和五十年代、父・高夫は。国会内に教育研究懇話会を設け、教育問題に政治家も真剣にとりくむ努力を続けていた。そしていま、子供たちはまた違った形で荒れている。
大人たちが生んでしまったこのゆがみを匡していくことは、容易なことではない。経済効率を第一とし、目の前の豊かさだけを追い求め、そのために「役に立たないこと」は切り捨ててきたこれまでの社会の構造を、原点にかえさなければならない。
二十一世紀が目前に迫っている。いまの子供たちが、十年後、二十年後に次代を担う主力となっていくのだから、いま、大人たちは行動しなければならない。自分たちがスポイルしてしまった子供たちを救うには、何をするべきなのか、皆が体を張ってとりくむ時だ。
その具体的な行動の一環として、偉民は、犯罪のない社会づくりを目ざしている。
日本は世界一治安のいい国とされているが、最近は犯罪が急増しているうえ、その内容も凶悪になっている。このままでいけば、五年後にはもっと犯罪は増え、日本も治安のいい国などと言っていられなくなるだろう。
一九六一年、国連機関としてアジア極東犯罪防止研修所が設立された。世界中から犯罪をなくそうという目的で作られた民間財団で、いまのところ、アジア刑政財団として日本に一つ存在するだけである。ここでは、現職の検事が共感となり、罪を犯した人たちに接して、なぜその犯罪が起きたのか、その原因と過程を見る。その具体例の集積が、どうすれば犯罪が起きないかという、巨大な難問の答えを示していくはずである。
偉民は、すすんでこのアジア刑政財団の全国組織委長となり、平成六年、まず福島支部を開設した。エンマコーチに怒鳴られていた鬼検事たちが、いま財団で活躍しているが、偉民の行動力と人脈は、検事たちの大きな力になっている。
日本に一つ、総支部は福島がはじめてというアジア刑政財団は動き始めた。偉民は、次に栃木、青森支部を作り、東京本部・支部を作る。
世界中から犯罪をなくすことは「夢」にすぎないという人もいるだろう。国の経済、
教育、宗教、民族などの問題が複雑にからみあった巨峰に、一歩一歩はだしで挑戦するようなものかもしれない。しかし、偉民は、これこそ自分のライフワークだと信じている。
健やかで心豊かな子供たちを育て、みんなが安心してくらせる国から、不動の良識と勇気を持った国民が生まれていくだろう。
万一、国家が戦争に向かって暴走しようとするような時は、世界中の国民が歯止めとなるだろう。
「二度と祖国の英霊をつくってはならない」と念じ続け、志半ばで逝った父・高夫の心を、偉民は自分の体を通して、次の世代に伝えたい。二十一世紀とそれに続く未来が、真に豊かで平和であることを願って、偉民は、次のバトンを受け取って走り始めた。