高夫の遺族としてお礼を言えば選挙には出なった。―偉民・政治家への転身―
亀岡高夫が体調を崩してから、周囲の様相は次第に変わってきた。六十二年には東京の第一秘書が、翌年には地元の第一秘書が、翌年には地元の第一秘書が相次いで辞めた。高夫が最も信頼していた人たちである。高夫は二つの大きな支えを続けて失った。
「体は弱っていく。頼みにしていた秘書が去ってしまう。父はどんなにつらかったでしょう。二人は、父の様子から、もう先がないと見たのか、病気で弱っていく亀岡を見ていられなかったのか…。本人はこのまま死ぬとはおもっていなかったのかもしれない。病床でいろいろな政治の話を僕にしてくれました。なくなる三日前まで話していました…。政治家という職業は本当に大変なものだとつくづく思いました。」と、偉民は当時をふり返る。
後援会にも変化が表われた。一部の人間は、高夫を降ろすという方向を打ち出していた。後援会の思惑と高夫本人との間に大きなズレが生じていた。
昭和63年9月、辰巳屋で後援会の会合が開かれた。結果としては、これが最後の会合となったが、高夫は当然、自分でもでるつもりで東京から来た。しかし、後援会は高夫を出席させなかった。自分の後援会にも顔を出せないことを高夫はくやしがっていたが、後援会はすでに、別のエネルギーと化していた。
達山会会長の小川氏は、この時、偉民をつれて会合にかけつけた。高夫と陸軍士官学校の同期である小川氏は、誰が何といおうと、どんな圧力にも屈しない筋金入りの人物である。小川氏は、別の方向に走り出そうとする後援会の軌道をなんとか修正しようと努めていた。偉民を会場のドアの外に待たせて、小川氏は後援会に向かって言った。「みなさんが。亀岡高夫に降りろとおっしゃるが、どうか本人の意思を尊重していただきたい。養子をもらったのが悪いとおっしゃるなら、どんな人間か会ってみていただきたい。今、ここに来ております。」
後援会にたった一人で向かいあう小川氏の声は、厳しく張りつめている。ドアのそとでそれを聞きながら、偉民は招き入れられたら、「自分は政治をやるつもりはない」とはっきり言うつもりだった。
真実のところ、偉民には政治家になる気は全くなかった。高夫の息子として、墓を守り、家を守っていくのが自分の役目だと考えていた。「偉民をたのむ」という高夫の遺言がひとり歩きしている。後援会が、もし、偉民を高夫の跡目をねらう策士だと思って警戒しているのであれば、自分の腹の中に何もないことを証明して、誤解をときたいと思っていた。
突然、けわしい叫び声がひびいた。「養子などに会うこともないっ」たった一人の人が大声で反対した。
小川氏が会場から出てきて静かに言った。「もう帰ろう。会おうともしない人がいる。話をしても無駄だ。」
高夫の四十九日までは、後援会の解散を待ってほっしいという偉民の願いは聞き入れられず、その一週間前に亀岡高夫後援会は解散式を行い、会は新しい名称をつけて、新しいり候補者を立てた。
偉民は、後援会に、遺族としてせめてお礼だけ言わせてほしいと頼んだが、これも拒否された。長いあいだ世話になり、支えてもらった後援会に、遺族として挨拶するのは最小限の礼儀であるはずだが、いらないと言う。偉民は、後援会の頑なさに戸惑うばかりだった。何の下心もない。墓守りである息子が「ありがとうございました。」と頭を下げさせてもらうことがなぜいけないのか…。
四十九日の法要を済ませて、偉民が野田町の事務所に来てみると、高夫の資料も名簿もきれいになくなっていた。もとの後援会の県議が来て言うには、「実は、四十九日前に整理してしまった。」ということである。
偉民の辛抱はここまでだった。
やるだけのことをやれず、くやしがって死んだ父は、死んだ後もこうして存在も軌跡も否定されようとしている。
これまで亀岡高夫がやってきた政治は何だったのか。他の誰でもよかったのか。義理も人情もない世界が政治の世界ではない。亀岡政治はそんなものではなかったはずだ。-怒りがふつふつとわき上がった。
「よし、やってやろう。」偉民は決めた。もう、墓守りだけにとどまっていない。父の跡を継いで、政治をやる、とこの時決めた。
いまふり返ると、偉民は自分が選挙をよく知っていたら出られなかっただろうと思う。身ひとつで二回も出馬できたのは、知らない者の強味だった。結果としては、有識者から否定されたが。一回目に二万、二回目に三万の票をいただいた。三万人の人が、偉民を選んでくれた。有難いことである。
偉民は、選挙は下手だが、人のために働くことは誰にも負けない。「当選もしていないのに政治家みたいなことをするな」と言う人たちもいるが、そんなことはかまわない。バッジをしていなくとも、偉民を選んでくれた三万人の人たちのために、真剣に働かなくてはと思う。ふだんの地道な政治活動を通して、亀岡偉民という人間を評価してもらえると信じている。
もし、あの時、後援会に遺族としてお礼を言わせてもらえていれば、いまごろ偉民は、高夫の墓を守り、一市民として別の世界で生きていただろう。人生の羅針盤はどこで変わるかわからない。
病に倒れた後、再起をはかって努力している金子徳之介氏の姿が、偉民には父・高夫とだぶってきてならない。いま、金子氏はどんなに苦しいだろう。父はどんなに苦しかっただろう。どうか本人の意思を尊重してやってほしいと、金子氏のまわりの人達に願わずにはいられない。
父・高夫の死に際、死んだ姿を自分の眼で見ていて、偉民は、全てを投げ出しても、亀岡高夫の墓を守り、家を守っていこうと心に誓った。-しかしいまは、出来の悪い息子である。
偉民は、ゼロからのスタートを切る。政治を変えるには、政治家を変えなければならない。人のため、国のために誠実に働ける政治家が政治の場に送られなければならないという信念を持って、ゼロからまた、スタートできるものも幸せだと、偉民は思っている。
ゴールはまだだ。