野球をやって、ふとんかぶって、本を読む”へんな奴”―作新学院入学―
野球にあけくるまま、偉民は高校進学のときを迎えた。
あまりの熱中ぶりに、両親は「中学限りで野球はやめる」という約束をとりつけるが、偉民の心はますます野球にのめり込むばかりである。
偉民の国分寺中と並んで、小山中、栃木東中が栃木県の中学三強、作新学院、宇都宮学院、小山高校が高校三強といわれていた。中学三強の名選手たちが、高校三強をねらって三つのチームに分かれるのだから、皆おだやかではない。
当時すでに強腕の天才ピッチャーとして注目されていた小山中の江川卓は、小山高校進学がうわさされていた。国分寺中の監督でクラス担任の先生は、偉民を小山高校に進学させようと願書を出した。奇しくも後に実現する江川―偉民のバッテリーでの甲子園出場を、この時夢見ていたのかもしれない。
偉民は、作新学園に行きたかった。小山高校の入試当日、彼は受験用のバスに乗らなかった。関東の名門・東海大相模からも誘われて受験したが、ここも気が進まず断ってしまう。偉民の学籍はその年の九月までそのまま残り、その空席ののちに法政大で活躍する小貝が編入した。不思議ともいえる野球の縁である。
偉民は初志を貫いて強引に作新学院に入学した。両親は大反対だった。「中学限りで野球はやめて勉強する」という約束がつき出される。たしかにそういう約束をした覚えはあるが、偉民にとってこの約束は、この野球に関する限り、破るためにあった。
「高校は野球をしに行くところじゃない。勉強しに行くんだ。どうせ行くなら授業料をちゃんと払っていけ!」とりわけ反対だった父は怒った。
各選手は授業料が免除されていたが、勉学に専念することを望む父にとって、そんなものは何の価値も持たない。
約束なんぞどこ吹く風と野球部に入った偉民に家族の攻撃の雨が降る。「どうせ三日と持たない。中学とは厳しさは違うんだぞ。」「絶対続くはずがない。」「勉強しなさい。」―たったひとり、姉の妃美子が偉民を応援してくれた。「自分の思ったことを一所懸命やればいいじゃない…。」
作新学園の入学式に、悲劇が起きた。中学野球のスター・江川が小山高校ではなく作新に入ってきたのだ。小山高校の江川を倒して甲子園に行くことを夢みて作新に来た、アンダーススローの名ピッチャー・大橋(のちに大洋へ)は江川の姿を見つけたとたん泣き出してしまった。
一方、名キャッチャー・金久保(のちの法政大からノンプロで活躍)は小山高校に進むはずの江川を追って小山に入学。みごとにねらいが外れてしまう。江川を倒すはずだった者、江川と組むはずだった者、ふたりの夢は、入学第一日目で砕けてしまったのである。
作新は、全校生徒六〇〇〇人のマンモス校で、野球部員だけで一五〇人いた。これだけの中からレギュラーになれるのはほんの一にぎり…新入部員にとっては気が遠くなるような話だった。
しかし、監督の眼は四人の新人を見逃さなかった。偉民、江川、大橋、菊地の四人だけは、入学式当日からレギュラーとして練習に参加させられた。
その初めての練習の日、偉民は作新野球部の血の洗礼を受ける。ノックしている先輩の
前を何気なく通りすぎようとした偉民の頭めがけて、監督のバットがうなった。「バカヤローッ!!」怒声が飛ぶ。偉民は何が起きたか。目の前が真っ暗になった。汗がだらだらと流れた。-ふと汗をぬぐった手を見ると、それは血だった。
偉民はこの時、高校の野球の厳しさをいやというほど知らされ、気をひきしめて、名門作新の野球部員としての第一歩を踏み出した。
野球部は原則として一年生は通学、上級生は合宿所ぐらしとなっていたが、偉民・江川・大橋の三人は、一年生から合宿所ぐらしとなった。
これまで親元で、野球だけやればあとは全部頼りっきりの生活をしてきた十五歳の少年たちにとって、清掃・洗濯・身の回りの雑事全てを自分でやらなければならないのは、重荷だった。それでなくても厳しい練習でエネルギーも気力も使い果たし先輩のしごきにも耐えていかなければならない。
あるとき、偉民が合宿所にもどると、江川も大橋もいない。さがしに行くと、ふたりは合宿所のフェンスの隅の暗がりにしゃがんで、何やらひそひそ話をしている。偉民が近づくとふたりは、思いつめた眼でふり返った。逃げようか…と相談していたという。―みんなつらかった。偉民だって、逃げたい気持ちがチラと頭をかすめることもある。-しかし、三人は思いとどまった。「もうすぐ上級生になれるんだ、がんばろう。」とお互いを励まし合った。
それにしても、先輩のしごきはつらい。中学の比ではなかった。中でも、先輩の泥だらけのユニホームを洗った後、ストーブの前にそれを広げて乾くまで立っている「人間乾燥機」をやらされるのはこたえた。早く日にちが経て!早く上級生になれ!偉民たちは心の中で願い続けた。
合宿は一部屋を四人一組ですごした。一〇には消灯になる。偉民は、寝る時間がまだまだ惜しい。本が読みたい。みんなが寝たあと、ひとり本を広げていると、「あかりをけせ」「眠れねぇー!!」と文句の嵐だ。そこで偉民が考えたのは、ふとんとテントだった。頭からふとんをかぶって、中に蛍光灯を入れる。ビカビカにまぶしく、汗だらだらになるほど暑い。-が、これなら誰も文句をいわない。ふとんの中が、偉民のお城だった。
別の部屋の江川も、ふとんの城で夜をすごしていた。彼はその中で勉強していたらしい。夜中、トイレに行くときなどに、通りかかると、江川はよく偉民のふとんをめくってのぞき「お、やってるな。」と声をかけていった。
偉民は、むさぼるように読んだ。暇を見つけては古本屋をあさって、心ひかれる本をみつけてきた。学生運動の挫折と、若く苦い心の軌跡を描き芥川賞をとったばかりの柴田翔や、人間の不条理を難解な表現で紡ぎ出してくる大江健三郎、労働運動に鋭利で情緒ある表現で向き合う季恢成などを読みあさった。
とりわけ偉民の心をとらえたのは、当時の学生運動や労働運動に真摯にとりくむ知的な若者に愛読された高橋和己だった。「わが心は石にあらず」に感動し、他の著書を買いあさった。
へとへとになる練習のあと、他の者が眠りにこけている夜中に、ふとんをかぶってこっそり、どんな面白いものを読んでいるのかと思えば、普通の高校生には訳のわからない難しい本ばかりで、偉民にはいつか友達の間では「変わったやつ」になっていた。
作新学院で偉民が入ったクラスは、進学クラスの理系進学コースだった。野球選手としての推せん入学だったので成績のデータがなく、ここに編入されたが、担任は偉民のリーダーシップをすぐ見抜いて、学級委員長に任命した。なにしろ全校生徒六〇〇〇人、玉石混淆の巨大校だから、ひとすじ縄でいく学校ではない。入学したその日に退学者が出ることも稀ではなかった。
偉民のクラスも、海千山千の連中がいた。“ゆうちゃん”と呼ばれるひ弱なやつがいて、授業中に突然泣き出すことがあった。変だなと思ってそれとなく観察していると、先生が黒板を向いたすきに、ワル連中たちがゆうちゃんをなぐって楽しんでいた。偉民はそんな奴らを片っぱしからなぐり返した。弱い者いじめをする奴だけは許せなかった。偉民はそれからも、自分の目の届くところでは、絶対にゆうちゃんに手を出させなかった。先生に乗せられて学級委員長になったが、持ち前のきかん気と正義感は、作新でもいかんなく発揮された。
合宿所でのくらしは、腹が減って困った。朝食を食べても、すぐどこかに消えてしまう。偉民の家の近くから通学しているクラスメートの稲葉に頼んで、偉民は毎朝、弁当を届けてもらった。それを二時間目が終わると食べるのが日課だった。
稲葉は、中学も偉民といっしょで、サッカー部だったが、毎晩ランニングをする偉民のために、自転車のライトを点けて伴走してくれた。とくに仲がいいというわけでもなかったが、毎日ひたすら、淡々と偉民の走る先を照らし続けた。そして高校ではまた、黙って弁当を届けつづけた。偉民が“変わり者”と友達にいわれるなら、稲葉もまた、十分な変わり者だったかもしれない。
お前なんか、絶対4番にしないぞっ」で、4番。―作新学院台頭―
練習初日から、監督のバットの一撃を喰って、偉民の、まさに血の出るような野球生活がはじまった。
偉民をはじめ三人の一年生が、大抜擢でレギュラー練習に加えられはしても、実際その内容は、果てることもないような、つらく地味な基礎練習に終始した。午前中は、ボールまわしばかりえんえん四時間くり返した後、午後はただひたすらランニングが続く。ベースランニングのあとはうさぎ飛びでグランドを回る。-体中がきしみ、血流は渦巻き、筋肉も骨も悲鳴をあげた。かすんだ眼に涙がにじんだ。
何人も泡を吹いて倒れる。練習中は、水等は一切口にできない。
翌日、ランニングに出られる者は、半分に減った。並外れた体力と体格、小学時代から激しく鍛えられた根性には自信がある偉民も、半分泣きながら、ランニングについていった。
日一日の人数は減り、二〇人が最後に残った。最後まで残れなければ、野球がやれない―偉民を支えたのはその思いだけだった。この過酷な練習をくぐりぬけたから、後に待ちかまえる大学のしごきにも耐えられたと、偉民はふり返って思う。
一年の時甲子園予選、秋の関東大会で、偉民たち新人ははじめて試合に臨む。作新学院は着々と勝ちすすみ、これに勝てば甲子園というところまで上りつめていた。江川は、強豪校前橋工業から十連続三振を奪った。怪物ピッチャーを目のあたりにして、観衆はわいた。
緊張した。思いきり打った。走った。全力でファーストに着いたとき、それが後に飛んだファウボウルだったと知った。-この一件を知った仲間は、偉民をからかう切り札にしてしばらく楽しんだ。-こんな珍プレーを織り込ませながら、作新はじりじりと甲子園に近づいていった。
しかし、どんでん返しが来る。バッターボックスに立った江川は、耳にデットボールをうけてしまう。-倒れた江川の耳から血が流れていた。救急車が来て江川は運び出された。一瞬悪夢のようだった。作新はここで力尽き、甲子園への道は閉ざされた。
江川は再起不能がうわさされたが、奇跡的に完治した。何の支障もなく、むしろ彼の力量はされに増していった。きっと神様が野球ファンだったに間違いない。
やがて偉民は、二年の夏を迎える。
野球選手としての経験も積み、技量も精神力もついてきた。充実感が、偉民をも仲間をも輝かせていた。
甲子園予選を難なく勝ち進んだ作新は、県予選決勝を迎えていた。これに勝てば、関東大会が待っている。江川は、九回までノーヒットノーランに抑え、パーフェクトを目前に、余裕の表情を見せていた。あと一息で優勝、しかもパーフェクトという大勝利を目前に、一〇回、江川はフォアボールを出してしまう。
ここで突然、勝利の女神の気は変わり、次はポテンヒットを打たれた。ランナー、一・三塁。ここでスクイズ。ピッチャー前ゴロ。目をつぶってでもとれるはずなのに、江川は尻もちをついてしまう。-信じられない光景だった。甲子園の道は、またこれで途切れてしまった。
場内は大荒れに荒れた。ブーイングの嵐の中で、ビンや缶がベンチに向かって飛んできた。名門・作新学院の快勝と、天才・江川の活躍を見たくて集まった観衆は怒り狂った。
「監督を変えろ!」脅迫電話が集合した。作新が高校生離れした実力と名声にスポイルされて、血のにじむような練習を、初心を忘れようとしていることを、これらの抗議や脅迫は物語っていた。
-そして、監督が変わった。作新は、秋の予選で優勝して、甲子園へと駒をすすめる。
今度こそ、の意地をかけて作新学院の猛練習が始まった。厳しい練習が終わった後も、偉民は毎晩遅くまでバットスイングに精出した。十二時を過ぎることも珍しくなかった。
偉民のスウィングには、並外れたパワーがあった。力が余り過ぎて、振出しから終わりまで、全くスピードが変わらない。偉民の振るバットは、野球劇画のように“ブンッ!!”と恐ろしいほどのうなりをあげた。
スウィングのパワーのメリハリをうるさく言う監督は、止まることを知らないパワーで振りまくる偉民にアタマに来て言い放った。「おまえな、そんなに全部リキんで打つなら、最後までリキんで打ってみろ!!おまえには四番を打たせたいが、七番だっ!!」
こうして偉民は、県大会では七番を打った。作新は県大会を制覇したあと、甲子園の登竜門・関東大会を迎える。
今度こそ負けるわけにはいかない。監督にとっては背水の陣をしく思いだった。確実にヒットを打って出る者を使わなければならない…。監督は、スコアブックを調べた。データを見ると、毎試合、コンスタントに打っているのは、他ならぬ偉民だった。監督は、偉民を四番に起用した。
決勝は、対横浜高校。次の春の甲子園で優勝する強豪である。ノーアウト満塁。四番偉民が最初のバッターボックスに立った。監督とチームと、場内の期待が集まる。
-投げた。打った。-とてつもないピッチャーゴロがボテボテッと転がった、ゲッツー。二打席目。カキーンと行ったが、あたり損ねのファーストゴロで二打席先取点のチャンスをつぶす。-監督は頭をかかえた。なんてこった「おまえなんか、絶対に四番にしないぞっ!!」監督は吠えまくった。
偉民の三打席目がまわって来た。三番江川が右フェンスに3ベースのライナーを放ったあとだ。四番偉民。左中間を破る豪快なライナー。3ベース!!ようやく偉民のパワーがさく裂した。三・四・五打席とヒットを打つ。
このときから偉民は、レギュラーで四番を打つことになる。
下馬評では優勝候補と目されていた横浜高校を破って、作新学院は念願の優勝を果たした。選手たちの力が充実していた。江川のカーブの威力はすさまじく、バッター全員が尻もちをついた。球が江川の手を離れて、バッターのあたまのところへボールが出てくる。ハッとした次の瞬間にはストライクが決まっていた。ただただ、びっくりするほかない。
勢いに乗った作新は、銚子南、農大似高などを次々と破って進んだ。江川は何をやっても勝てるときだった。選手みんなが、心から野球を楽しんでいた。気も力も登り続けていた。-そして作新は全国大会に臨む。